私とオリンピック
- 2011年7月29日
- (コラム就業歳時記)
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47年前、甲子園を目指し野球の名門高校に入学しましたが、あまりのレベルの差に挫折し、野球部を辞めました。それから遊んで1年、校長先生よりウエイトリフティング(重量挙げ)をやってみないかと勧められました。高校3年から始め、最初は嫌々でしたが、高校最後の国体予選会で失格をした悔しさをきっかけとして、大学に進学しウエイトリフティングを続けることになりました。当時は、オリンピック選手になれるとは夢にも思っていませんでした。
大学に入学し、同級生(当時の高校チャンピオン)に恵まれ、その彼がトレーニングでも、よきパートナーとして、また指導者として初心者の私にアドバイスをしてくれました。その結果、アジア大会の第7回(1974年、イラン)、第8回(1978年、タイ)で連続優勝と輝かし成績を残すことができました。一生外国など行けないと思っていた私がいろいろな国に行くことができ、いろいろな経験をすることができました。スポーツマンとして最大の祭典でもあるオリンピック(1976年、モントリオール)に出場したのが夢のようですが、それだけでなく銅メダルをいただくことができました。
一つ残念なことは1980年、モスクワオリンピックに日本がボイコットで出場することができず現役を去ったことが、今でも心残りはあります。その分、指導者として一人でも多くの日本チャンピオンを育成し、オリンピック選手を名古屋産業大学から出場させることを目標に日々頑張っております。
誰でも諦めないで最後まで頑張ればオリンピックの選手になれる。
高大連携・初年度教育部会 平井一正