障害者の介助をしてみる

昨年末とあるグループの忘年会に参加した際に、前の職場の後輩女性と再会した。声をかけられて初めて気づいた。彼女は忘年会に参加している車いす利用者の若い女性の介助者として来ていた。研修を経て、その日初めて1人で介助をしているとのことだった。彼女と一緒に、忘年会の鍋料理の準備をしながら、昨年の夏、そのグループ主催のイベントに彼女を誘って参加したこと、その際に車いす利用者の若い女性が「介助者募集中」と書かれたビラを彼女に渡していたこと、二人の間で少しやり取りがあったことを思い出した。

私自身も同じように重度障害者から介助者に勧誘され、細々と介助を続けて10年以上になる。私が始めた当時、障害者の介助をするための資格は不要で、人手不足だったこともあり、ほとんど研修はなかった。周りには、自営業者、主婦や学生、ミュージシャンやボクサーといった夢に向かって奮闘している人、何かに行き詰まっている人、様々な人がいた。私を誘った障害者も、様々な人が介助をしていることを大切にしていた。

介助をめぐる国家資格である介護福祉士には介助に関わる実務経験を3年以上積み、試験を受けることで資格を取得するルートがあり、数日で取得可能な重度訪問介護従業者などの資格を取得し、働く中で取得することもできる。介護福祉士は働くための資格だけでなく、働いた結果得られる資格でもある。

専門的な知識や技術を要する介助も増えてきているが、それほど知識や技術を必要としない介助もある。特定の専門職だけでなく、いろいろな人がふとしたきっかけで障害者の介助を始めてみること、介助を通じて障害者への理解が広がること、介助がそうした可能性に開かれていることは大切だ。障害者と健常者が一緒に活動する中での日常的な助け合いとしての延長としての介助ももっと増えると良いと思う。

ここ数年、年末年始に決まった重度障害者宅に介助に入っている。その介助が私にとっての年末年始の恒例行事になっている。ほぼ1年ぶりの介助となった大晦日の夜、一緒にすき焼きを食べながら、現在していること、来年にやりたいことについて互いに話し合った。介助をしながら、私にとって介助には「必要とする―される」という意味合いがあることに気づかされる。障害者が介助(介助者)を必要とするだけでない。介助の担い手が、介助を直接的に受け手のニーズを満たすための行為、相手の役に立つ行為であると実感できることでもある。そして私自身がその障害者宅で介助をすることで(相手にとっては迷惑な事かもしれないが)普段の気ぜわしさとは異なる穏やかな時間を過ごせていると感じていることを含めてその介助には「必要とする―される」関係があると感じる

障害者の介助というと、特別なこと、専門的なことと壁を感じてしまうかもしれない。同じような人ばかりでなくいろいろな人と出会ってみたいと思っている人、違う世界をのぞいてみたいと思っている人、たまには体を動かしたいと思っている人にもっと気軽に介助を始めてもらえると嬉しい。

丸岡稔典