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◇愛情教育、この指とまれ◇その605◇令和の時代を生き抜く 名産大1年生物語 vol.55 竹澤 伸一

林祐希(ハヤシ ユウキ)くん。関西の、ある大都市の衛星都市から、名産大に飛来しました。「社会人野球に挑戦したいです。そしてその後、中学校の教員になって、野球部の顧問になりたいと思っています。」ご自分のめざす道が、早やはっきりしています。視界良好です。

では、私から林くんにプレゼント。中学校剣道部顧問歴が長い私が、色々な現場で出会った「伝説の運動部顧問」を、2人ご紹介しましょう。

A先生。理科の教師です。野球部の顧問でした。2年前、定年退職しました。60歳まで顧問をやり遂げました。独学で栄養学を修め、野球部の保護者と協力し、部員の3食を完全管理していました。いつも80人くらいの部員を擁していましたが、毎月・毎週・毎日の献立を、全員分必ず作成し、栄養管理を徹底していました。そのせいかどうかはわかりませんが、毎年のように上位の大会に進出し、卒業生の多くを高校野球界に送り込んでいました。ある保護者の言葉(私の学級にいた部員のお母さま)が、今でも忘れられません。「うちの子は、野球をやっている割には食が細くてひ弱でした。でもA先生のメニューのおかげで、見違えるように丈夫になりました。」

B先生。社会科の教師です。吹奏楽部の顧問。11年前に定年退職。今でも地域の公民館のサークル活動で、タクトを振り続けています。現役教師の時は、毎朝6時に出勤し、学校中の開錠をした後で、音楽室に籠り、ひたすら部員の楽器を調整していました。複数の楽器を独学で演奏できるようにし、指揮法は専門の先生のもとに通い身につけました。地区代表、県代表は当たり前。B先生の口癖。「ほら、僕の磨いた楽器は光っているでしょう。子どもが喜ぶんですよ。」

林くん、どうせなら、こんな顧問をめざしてほしいな。

(つづく)