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◇愛情教育、この指とまれ◇その859◇アクティブラーニングで開花しました。 名産大4年生物語 vol.49竹澤 伸一

「社会科公民科教育法の授業、そして情報科教育法の授業、そこで実践した授業づくりが、自分にとって大きな母船となっています。」

福嶋翔悟くんは、言葉を選びに選んで、「母船」という言葉を使いました。

「母船」、実に良い言葉です。教員を、授業づくりの実践家ととらえると、「母船」に当たるのは、自分の手で開発した「教材」や「指導案」になると思います。「教材」とは、自分が選びぬいた「素材」や、複数の「素材」どうしを組み合わせて「第3の素材」を開発したものに、これも選りすぐった「発問」を付与したものを指します。ちまたに転がっているデータや記事だけでは「教材」とは言えず、それに「発問」、つまり生徒に何を考えさせたいかをくっつけて、初めて「教材」と呼ぶのです。「授業」をすることができず、「講義」しかしたことがない教員は、「素材」は提示できても、「教材」を開発することはできないのです。

福嶋くん、独自の「母船」の中に、複数の「教材」を格納することができています。そして次の段階は、指導案の開発です。よく、底の浅い教師が、「指導案は教える内容の順番が決められていれば良い」などと放言していますが、とんでもないことです。読者の皆さまも、よくご存知のように、一流の芸人は客の雰囲気を逸早くつかんで、ネタの構成を瞬時に変えてしまいます。一流の教師も同じで、「指導案」は複眼的に作ります。生徒の反応や発言、食いつきの状況で、用意した「教材」を変幻自在に加工して提示します。その「加工の振れ幅」も含み込んでの「指導案」であり、「教材」でもあるのです。準備した「素材」を、「発問」もなく順番通りに説明するだけなら、それこそAIでもできます(たぶん最近のAIはディープラーニングを積み重ねているので、二流半の教師並みと言ったら、怒り出してしまうかも)。

「社会科公民科教育法」の授業で、私は複数回、福嶋くんの「授業」を体感しました。すべて「母船」を感じさせられる「授業」群でした。そして大変ラッキーなことに、教育実習の現場で、福嶋くんの「授業」に参加する機会を持つことができました。指導教官の先生方のおかげで、福嶋くんの「母船」は、一段と大きくなっていました。その「授業」の良し悪しを決める指標は、たった1つしかありません。その「授業」を「共創」した生徒が、どれだけ「教材」に食いつき、考え尽くしたか、です。福嶋くん、すばらしかったです。

(つづく)