打ち上げられた貝

あるラジオ番組のナレーターが話していたことを思い出した。

夏の日、青く澄み渡る空、広い白砂の浜辺におびただしい数の貝が打ち上げられている。遠くから見れば、浜辺一面が貝で多い尽くされているかのようである。前日の台風で潮に流されて打ち上げられてしまったのだろう。炎天下の折、数時間もすれば干上がってほとんど全部死んでしまうだろう。そこでひとりの男がなにやら動いている。よく見るとその男はいくつか貝を掴んでは海に投げ戻している。おびただしい数の貝のほんの数個を掴んでは、干からびて死んでしまわないように海に返してやっているのである。

離れたことろから見ていた冷めた目をした傍観者が、その男に向かってこう言った。「そんなことして何になる」「数時間すればどうせ全部死んでしまうのに」「全体からみれば、お前のしていることなど意味ないよ」離れたことろから見ていたもうひとりの別のとんがった口先の傍観者も、笑いながら言った。「そんなことして、非効率だよ」「君のやっていることは時間の無駄だ」

男はそんな言葉には関心がないかのように、貝を掴んでは海へ、また掴んでは海へ投げていた。二人の傍観者はあきれた顔でお互い目を合わせた。そして、その場を立ち去ろうとした。その時、立ち去ろうとする傍観者達に男が、両手に貝を掴みながら言った。「でも(今この手の中にある)こいつにとっては 大きな違いなんだよ」そういって貝を海へと放り投げた。

ナレーターの話はここで終わった。そしてふと我に帰った。

教育とはこうゆうことなのかも知れない。内向き思考で飛び出すことをしない若者、将来に希望を持てない若者、コミュニケーションがうまく出来なくて引きこもる若者、今日もおびただしい数の貝が打ち上げられている。改革の名のもと、本来の目的を忘れ、効率や採算ばかりを考えていないだろうか。

加藤 和彦